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才能という創造2
 才能は、発見の瞬間という観点から眺めるなら「知覚」である。
 「おれにはこんな才能があったんだ!」という、才能の知覚である。「あったんだ」というところにだけ注目するのなら、「存在」という言い方もできるだろう(それに人は惑わされてきた)。
 しかし、才能に対する自問から才能の顕在化までというプロセスの観点から眺めるなら、才能は「創出」である。
 才能というのは自己反省で辿り着くものではない。他人との差異のなかで知覚するものでもない。「他人より数学ができる」とか「他人より文章がうまい」というのは、才能ではないのだ。
 才能を悟るまでの自分は、自分に何ができるのかがわかっていなかった。それを自分は「才能がない」と形容していた。
 しかし、1996年2月某日、3人めか4人めのシナリオを書いていて、突然啓示が降りたのだ。「実はおれは恋愛ものが書けたんだ! 得意やったんや!」と。
 つまり、「自分に何ができるのかがわからない状態」から「自分に何ができるかわかった状態」に変わったのだった。
 恋愛ものが書ける人なんて、別に珍しくはない。ましてや自分レベルなど、ざらだ。でも、そういう他人との比較という意識、他人との差異というのはなかった。 
 知覚した瞬間というのは、むしろ、宗教的な悟りに近い心境だった。
他人との比較や他人との差異というものを一切突き抜けた地平線で突然悟ったもの、それが才能だったのだ。
 才能には「天賦の才能」「与えられた才能」というものもある。
 しかし、それにぶつかるのは才能を悟ってからもっと先のこと、もっと上のレベルに到達してからのことだ。
 ボウリングで言うなら、たとえばスコア200を叩き出すのは決して難しいことではない。アベレージ180も不可能ではないだろう。
 しかし、プロになったとして、そこから毎年タイトルを獲得するとかジャパンオープンで勝つというのは、次元の違うことなのだ。そこで初めて大きな壁、「天賦の才能」の違いというのに突き当たる。ほとんどの人は、そんな大きな壁のはるか手前で人生を終えるものなのだ。
 自分が問題にしているのは、そういう意味の才能ではない。もっと手前のレベルの才能である。 
 この「才能」については、よく「才能がある」「才能がない」という言い方をする。だから、才能というのは存在論のレベルだと勘違いされる。
 だが、そうではないのだ。才能は存在論の世界で生まれるものではなく、行動論の世界で生まれるものなのだ。それが、「創出」という意識的作用なのである。
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COMMENT

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「愛」と同じかも
アーバイン | URL | 2005-01-26-Wed 08:03 [EDIT]
くさくて恐縮なのだが、「愛は名詞ではなく動詞だ」という台詞があったりする。
よく「愛が無くなった」「愛がさめてしまった」という言葉を耳にするが、これは
「愛」を名詞だと捉えた発言。「愛」を動詞として捉えると、「自分から能動的に
愛する限り、愛はなくなりもしないし、さめることもない」と言える。

才能への覚醒と同様、実践できるかどうかは本人の意思しだい、という事なんだろう。

特に「愛=恋愛」の場合、なかなか上手くいかないものである(笑)。

| URL | 2005-01-26-Wed 09:23 [EDIT]
 おお、同志よ(笑)。

 動詞に引っ掛けたんちゃうで(笑)。
 共産主義者同士の呼びかけをただ真似ただけだす。

 愛は動詞というのは、切実に感じる。
 才能も、同じように動詞なのかもしれない。人は才能を「名詞」だと思って自分のなかで検索をかけるけれど、才能は「動詞」として捉えないと発言してこない。知覚レベルにまで上昇してこないってことやないかね。

inosinic acid mark2 | URL | 2005-01-27-Thu 01:30 [EDIT]
わざわざ俺のコメントなんぞに懇切丁寧にレスポンスしていただいてありがとうございます。パソコンをつける日が不定期なもので拝見するのが遅れてしまったことをお許しください。
【才能は、「発見の瞬間」で見るなら、「おれにはこんな才能があったんだ!」という知覚です。「あったんだ」というところにだけ注目するのなら、「存在」ということになるでしょう。
 しかし、自分に才能はあるのだろうかと考え出してから知覚するまでの10年近くの長い「プロセス」で見るのなら、才能は創出です。】というのが貴殿の論旨であると解釈すれば、我々の相違点は同じ現象の注目点の違いと読み取ります。つまり、僕は「知覚」と言う点に注目し、貴殿は知覚までの「試行錯誤」に注目しているということです。誤解を恐れず続けるならばそれでも僕は才能は知覚するものだといいたいです。【恋愛ものが書ける人なんて、別に珍しくはない。ましてや自分レベルなど、ざらだ。】とおっしゃいますが僕は決してそうではないと思います。もしあなたほど恋愛物のエロシナリオを各能力がゴロゴロ転がっていればあなたはこの業界においてここまでに人物になることはできなかったでしょう。それでもあなたは謙遜なされるかもしれませんがそんなことはないとだけは僕は言い切れます。
僕は他人との差異の中でその人の才能が「知覚」されるものだと思っているのですが、たとえ話をすれば、我々から見たときにある民族が非常に高い能力を等しく持っていたとしたら彼らは非常に高い能力を知ることはできずにこれが平均的能力だと思ってしまうでしょう。能力やそれに伴う才能というのは相対的なものだと僕は思うのです。
さらに大胆にものを言えば、僕は身の回りの自分では決められずにもともとそこにあったものをすべて才能とよびます。その人の潜在的能力もそうだし、環境だってそうだと思います。親がひどい親であったら潜在的能力があったとしても開花させることができなかったとしたらそれは才能が欠如していたと僕は判定するのです。
怒られてしまうかもしれませんが、あなたは自分の努力を自分で行ったことだと思っているように感じますが、僕はその努力できたことすら才能だと思うのです。その人が何を好むか、何に長けているかは生まれつきにせよ幼少の教育にせよ本人の意向とは別のところで決定されると思います。だからそのようなファクターをすべて僕は才能と呼びたいと思うのです。
さて僕のどちらかといえば論争的な意見はいかがでしょうか?

p・s 残念ながら僕は18歳未満なんで貴殿のゲームなどには関わりがないのですがくるべき時がきたら性欲の捌け口としてではなく1つの貴殿の作品としてプレイしたいなぁと思います。僕も巨乳は好きです
「どれほど」ではなく「どんな」
| URL | 2005-01-27-Thu 21:05 [EDIT]
 inosinic acid mark2君はいくつか勘違いをしている。

 まず1つめ。
 才能の知覚は、他人との差異において行うものではない。才能というのは、「他人と比べて何ができるか」ではなく、「自分単体を眺めた時、自分に何ができるか」です。
 その才能が「どれほどのものか」、ということになると「他人との差異」(相対性)が問題になってくるけれども、自分という1個人を取り上げた時に「どんな才能があるのか」ということになると、他人との比較ではなく、純粋に自分の内部の問題(絶対性)です。
 「どんな才能があるのか」「何ができるのか」ということには「どれだけ」というベクトルはありません。知覚した瞬間というには「どれだけ」というベクトルはないからです。
 もし、「どれだけのレベルなのか」ということを入れてしまうと、料理をしている主婦というのはみんな才能がないよ。プロだけが才能があって、アマチュアには才能はないという極論に到達してしまう。それではただの敗北者の論理。

 2つめ。
 自分が問題にしている才能は、他人と比べた時にどれくらいのレベルのものかというものではなく、自分にどんな才能があるのかというものです。
 「どれくらい」才能があるのかということではなく、「どんな」才能があるのかということです。「どれくらい」というのは、「どんな」が見出された後に出てくるもので、そこを突き詰めることにあまり意味はありません。

 3つめ。
 才能というのは、先天的なものをだけ指して言うわけではありません。後天的なものも含めて才能です。
 それから、先天的な部分(巡り合わせとか環境といったもの)は、才能を知覚してから初めて過去をたどることによって見出されるものです。才能を自分が知覚していない時点、つまり才能の創出に成功していない時点では、先天的な部分というのは知覚できないのです。

 というわけで、最後に。
 同じオッパイ星人として、18才になるのを愉しみにしています。
 性欲の捌け口として作品をプレイしてもらっても、作り手自身としては大歓迎です。むしろ、それを目指してつくっているところがあります。
 エロゲーにもいろんなのがありますが、自分は自分のエロゲーを買った人に思い切り抜いてほしい。小説にしても同じです。自分のポルノ小説で、思い切り抜いてほしい。そう思っています。
対話編
inosinic acid mark2 | URL | 2005-01-28-Fri 01:27 [EDIT]
最初にひとつだけ言わせていただきたいことがあります。投稿の冒頭部分において論客を完全否定するのはやめていただきたいのです。僕の個人的感情もありますが、感情抜きで冷静にそなたの意見を読むのが難しくなってしまいます。さらに、そのような言い方をされるとあなたが完全に正しくて僕のような若造が意見を正されているようにしか感じることができず、どうも不愉快です。僕にとってはレスポンスがもらえるだけで嬉しいので、くだらないことではあるんですがね。

「1つめ」と「2つめ」について
僕はそれに対して「才能」と「能力」の言葉の使い分けによってこたえます。「才能」という単語において僕は他人よりも秀でていることを想定するのです。そして、その反対に「能力」においては程度を問わずそのことができることを表すのです。また、そのような僕の用語法の世界においてやはり他人との比較における差異が必要なのです。主婦の例を引くならば、みな等しく料理をする「能力」は持っているが、A家の飯はうまくB家の飯がそれに比べてうまくなかったときAさんには「才能」があるといえるということです

「3つめ」について
後天的なファクターというのが具体的に思いつきにくいと僕は感じたのですが、もし努力すること、例えば作家になろうと思ったときに曲がりなりにも書いて論評してもらったり本をたくさん読むことを指しているとすれば、僕からいわせれば努力できたことも才能であるといわせてもらいたい。つまりほかの人はその分野に対する努力への忍耐力を持ち合わせておらず、またその分野に対する「能力」の高さも持ち合わせていなかったということになるのです。
また、環境やめぐり合わせなどのファクターにおいて過去を眺める観点で判断を下すことは僕が非常に嫌うものでありました。でも本人の知覚できない範囲にそういうものがあるように思います。

どうも僕の意見は弱いですね。妄想ばかり膨らんでどうもうまくいかない思春期であったりしますw

言葉では自分の考えを伝えきれない僕の語彙のなさだけが恨めしいです。
母性を求めている僕は巨乳と女教師(実際に今惚れてる人がいたりしますw)に非常にひかれます。
いつの日か貴殿の作品で思い切りぬける日を心待ちにしつつ
僕のサイトです。地味に宣伝(笑)いまは何もないんで日記でも見ていてください<m(__)m>
http://f54.aaa.livedoor.jp/~inosin/index.html
否定は愛情です
| URL | 2005-01-28-Fri 09:10 [EDIT]
 勘違いしちゃいけないよ。
 おれは正しているんだよ。ここに書き込むということは、間違っている場合はそれを指摘されるということです。
 間違っている部分に対して「違うだろ」とはっきり言う。それがおれなりの愛情です。そこでなあなあで誤魔化して「うんうん、そうだね、面白い意見をありがとう」と返事するのは、時間を割いて書き込んでくれた人に対して失礼だ、とおれは思っているのです。
 どうでもいいやつに対してね、正面からぶつかったりせんよ。そもそもレスなんかしません。おれは忙しいのです。ゲームも小説もそれぞれ1本抱えているのです。

 上からの物言いが高校生ぐらいの子に対してめちゃめちゃむかつくというのは、おれはわかってます。わかっていて、わざとそういう書き方をしている。
 なぜなら、上から押しつけられた物言いをされるという経験も必要だと思っているからです。
 まわりがね、いつも微笑んでくれてばかりというのはよろしくない。正面からぶつかってくれる人がいないといけない。そう思っているからです。

 おれもね、inosinic acid mark2君の頃は生意気でした。いろんなことを考えたし、哲学的なこともやった。高3の時には「神、宗教、批判」なんてタイトルの長文を書いたりもした。その頃にネットがあれば、こんなふうに書き込んでいたでしょう。
 ある意味、過去の自分にinosinic acid mark2君は似ています。観念に走りすぎるよね。実践が少ない。
 inosinic acid mark2君にひとつ聞いてみたい。
 自分の才能に対してどれだけ向き合った?
 自分の能力に対してどれだけ向き合った?
 実践のないまま、頭のなかで観念をひねり回している感じがするのね。「才能」と「能力」を自分なりに区分けして論を構築しているところは、それはそれで頼もしいし読んでいて微笑んでしまうんだけど、危険性もある。考えてばかりで肝心の「実践」「行動」を忘れてしまう人間、になる可能性がある。

 実践が少ないとね、どうしても机上の空論になってしまうんです。
 たとえば。
 「能力」というのは、程度を問わずそのことができることだ、とinosinic acid mark2君は言っている。
 でも、できるってどういうこと? 「ここまでできることが、できることです」って答えたら、その瞬間に「程度」を導入しちゃってるんだよ。ちょっと曖昧だよね、定義が。

 それから。
 才能が比較(差異)によって成り立つ場合。
 AさんはBさんよりも料理がうまい。だから、才能がある。しかし、CさんはAさんより料理がうまい。Cさんは才能がある。
 でも、その時Aさんは?
 才能はあるの? ないの?

 Dさんは中華料理がうまい。Eさんはフレンチがうまい。
 DさんとEさんを比べた時、どっちが才能あるの?
 
 異質のものを比べようとするとちょっとおかしくなってくる。
 inosinic acid mark2君の考えを当てはめると、ポルノ作家と推理作家の才能は比較できなくなってしまう。
  
 それから、気づいてるかな。
 「才能は他人との比較において成り立つものであり、その中には先天的な部分と後天的な部分も含まれる」と言った時に、宿命論になってしまっているということを。
 「努力すること自体も才能」ならば、努力できない人は才能ないってことになってしまう。そうなると、もうほとんど生まれつき決まっているということです。すなわち、宿命論です。

 それでいいの?
 宿命論でOKなの?

 inosinic acid mark2君の考えはね、どうも悲観論が通底しているね。
 才能なんて結局生まれつき決まってるようなもので個人の力じゃ無理ですっていう、敗北者の論理に聞こえるのよ。
 
 「宿命論」ということと「宿命論的」ということとは違います。
 作家になりたいと思っている人はいっぱいいる。でも、努力できるかどうかは、本人次第です。そこに「宿命論的」な部分は入ってきます。でも、「宿命論」じゃない。占いだって、占星術だと宿命論じゃないからね。宿命論的ではあるけれど、ちゃんと後天的な部分も入っています。

 才能には、「能力がある」という意味の才能と、築き上げていける部分の「才能」というのがあって、それは狭義の才能と広義の才能と言い換えてもいい。
 たとえば、「あの人、才能はあったんだけどねえ」という言い方があります。
 ものを書く才能には恵まれていたけれど、途中で身体を壊したり精神的に病んでしまったりしてダメになってしまった、という人に対して、そんなふうに言ったりします。
 それに対して「精神的な部分や肉体的な部分も含めてちゃんとものを書いていけるということも才能だ」という言い方があります。これは広義の才能でしょう。

 そういう言い方を否定するつもりはないけれど、おれが問題にしているのは広義の才能じゃないんだな。

 差異としての才能というのは、複数の他人の視線を眺める視線から生まれているものです。
 自分の才能ではなく、他人の才能を比較する時の視線です。

 おれが問題にしているのは、自分の才能です。
 A君とB君とC君を比較して、才能がと言っているわけではない。個々人にとっての「おれの才能」を言っているのです。

 他人の才能を比較しようとすると、非常に曖昧な問題に引きずり込まれてしまう。
 推理作家A氏とポルノ作家B氏と映画監督C氏の才能は?

 相対性が関わると優劣が生じてしまう。
 けれども、比較できる?

 がんばれることも才能だとして、それを比較できるの?
 がんばって作家になった人と、がんばらずに自然に作家になれちゃった人がいるとして、二人の才能を比較できるの?

 inosinic acid mark2君の「能力」もね、他人との差異が裏にあるのね。
 程度を問わずということになっているけど、「できる」ということだと、どうしても一般的なレベルというのが要求されてしまう。そうなると、結局「他人と比べて総合的に出した標準ライン」を突破しているかどうか、という問題になってしまう。つまり、他人との差異が出てきちゃうのね。
 「できる」というのが「できる」という個人的な実感なら差異は出てこないんだけど。

 おれはこのブログを、作家志望の人に向かって書いてます。そういう人が陥りやすい過ちに対して「そりゃ違うだろ」ということを書いてます。自分が陥った陥穽を振り返りながら、過ちに陥っている人の意識を解体しようとしています。
 「才能は差異だ」なんて言っても、志望者に対しては何も効力がない。そういうとらえ方では、自分の才能を引き出せない。
 創出と考えた方が自分に対してやさしくなれるし、才能も引き出しやすくなる。ニートの子たちにも対しても、少しはましでしょう。
 おれはそう思って書いているのです。
 
 最後に老婆心ながら。
 20才近くも年の離れた人に向かって「貴殿」は変だと思うぞ。「そなた」はもっと変すぎる。
 辞書を引いてごらん。

 「そなた」は「下位の相手、もしくは対等の相手に対して用いる」と書いてます。
 おれは年下かい?

 おれと同じ地平線に立って議論したいと思うのなら、もっと勉強してきてごらん。
 おれに対して「論客」たりえたいのなら、もっと勉強して、実践してきてごらん。

 ネットというのは議論には向かない場所です。
 一度、直接会って話した方がいいかもしれません。でないと、たぶん議論にも対話にもならんよ。
毎度御馴染
inosinic acid mark2 | URL | 2005-01-29-Sat 02:24 [EDIT]
危うく僕は重大な勘違いを論旨以外でもするところでしたね。ここまで書かれてやっとわかった気がします。本当に若造の暴走に付き合っていただいてありがとうございます。僕はここで誤魔化されなかった事は非常にうれしく思います。
確かに僕は、客観的に見ているようなフリをして、すべてが俺の思っているとおりであると思い込んでいた感じがします。一瞬で態度が変わってなんだか詐欺のような気がされるかもしれませんが、僕はこの瞬間自分の成長を感じ取れたと思うのです。
言われてみれば、僕は確かに自分の脳内に独自の世界観を築いているだけのオナニーをしていたような気もします。それが現実の世界において通用するかって言ったら経験がない僕にそれは判断できないのであって、少なくとも今において、特にこの経験が非常にものを言う論旨において僕は無力なのでしょう。それがひしひし伝わってきました。
でも僕は今思想にハマっているし、いろいろ本を読み漁って教師と話をしたりします。しかし、本当にそれが俺に”できる”ことなのかわからないということですよね。思想家としてのスキルに何が必要かはわかりませんがそれを達成できたとき僕の才能が思想家だったのであってそれまでは、僕の才能が思想家なのかそうでないのかわからないということですよね。
そう言われてみると「程度」の導入は案外あいまいなものであると気付かされます。確かにすべてのことに絶対的尺度があると考えているほうが矛盾が起こることは明らかですね。客観性って難しい。
「宿命論」は気付いているのです。そこからの救済を僕はハンナ・アレントと言う政治思想家の考えによって行いたいと思っているのですが、端的には言えなかったのでというか僕が彼女の思想を理解しきってないので書くと余計こんがらがるかなと思ったので省いてしまったのです。どうか僕が逃げていると思わないでいただきたいです。そしてこれに対するレスポンスはできればご勘弁していただきたいです。あぁなさけない_| ̄|○
僕はまだ鏡さんのおっしゃる「個人的な実感」というものを感じていません。だから非常に不安定で怖いけど感じられるまでは人生を突っ走っていかなけりゃならないのですよね。「実感」がないから不安になっちゃうけど僕はどこかに僕が「できる」ものを持っていると信じていいのですよね。
芸術はえてして相対評価など行えないものなのに、あのような用語を用いてしまった自分が恥ずかしいです。でもその恥ずかしさによって僕は成長したといえるのではないでしょうか。
2人称は本当に考えなしに使ってしまいました。無礼をお詫びします。普通に「鏡さん」と呼んでおけばよかった。そういう端々に経験のなさが表れてしまう気がします。今回のは俺の怠惰さが悪いのだけれども、経験があれば1度辞書を引いておこう、と思うのだと思います。
ネットが議論に向かない場所だというのは僕もうすうす感じてはいましたが今回はこういう形に甘んじさせていただきました。いつの日か鏡さんとまともな議論ができるくらいに僕が成長したらお会いしたいです。それまではこの鏡さんとの会話を思考の片隅において生きてゆきたいと思います。
何度も何度も読み返したけどきっとどこかにほころびはあって伝えたいものが伝わりきらないような気がするんだけど僕はここで書き込みます。どうか僕の思いがすべての人に伝わらんことを

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